「散るぞ悲しき(硫黄島総指揮官・栗林忠道)」を読んで

 梯(かけはし)久美子著「散るぞ悲しき(硫黄島総指揮官・栗林忠道)」新潮文庫を読んだ。
 この本を読んでまず、硫黄島総指揮官であった栗林忠道中将の非常に人間味に飛んだ人柄に感動した。21000人の部下をやむを得ず硫黄島で死に向かわせた栗林中将であったが、その人は家族を愛し、部下を慈しみ、そして現実を直視し、合理的に対処し得る、当時の軍人にしては珍しい人であった。
 次に大本営が如何にいい加減な組織で人命を粗末にし、国を滅ぼそうとしていたかが良く分かった。また、最近、敗戦直前のメモが見つかった東条英機がどういう人間であったかも。

 まず、硫黄島戦に関係する事項を年表にまとめてみる。( )内は栗林中将が家族に宛てた手紙の一部概要。漢数字は算用数字にした。

1943年(昭和18) 5月29日:アリューシャン列島のアッツ島約2600名玉砕。玉砕第1号。

1944年(昭和19) 6月 8日:栗林中将硫黄島に着任。
             6月15日:米軍がサイパン島に上陸開始。硫黄島初空襲。
             6月20日:マリアナ沖海戦で日本機動部隊が壊滅的大敗。
                    栗林中将、水際作戦を捨て後退配備に転換を決断
             6月25日:硫黄島の米軍による空襲、機関銃掃射)大本営サイパン放棄を決定。
                    (“たこちゃんへ・・・・・戦地のお父さんより”次女・たか子宛)
             7月 3日:島民の内地送還開始。
             7月 7日:サイパン島約40000名玉砕
             8月 3日:テニアン島約5000名玉砕
             8月11日:グアム島約19000名玉砕
             8月19日:大本営陸軍部が水際配備から後退配備の新方針を打ち出す。
             8月25日:(“敗戦の運命”、“今日あって明日ない命”と手紙に書く)
             9月12日:(“私も米国のためこんなところで一生涯の幕を閉ずるのは残念”)
            10月 4日:(妻に“按摩さんは頼んでいるだろうか?”と手紙)
            10月19日:(“敗戦になって米軍が関東平野に上陸”しても頑張って強く元気に生きるよう妻に手紙)
            11月 2日:(父島にいる方が安全だが、“一身の安全・不安全は考えておれない”)
                    (“敵は近く大型機を以って東京空襲をやるかもしれません。”)
            11月17日:(たこちゃんの夢を見た話。次女・たか子宛)
            11月25日:ぺリリュー島約10000名玉砕
            12月 8日:米軍硫黄島に空襲(192機爆弾800t)と艦砲射撃(6800発)。
                    (“ウイスキーその他送り物は一切不要”、“近辺へもだいぶ爆弾が落ちたが幸いに何もなかった。”)

1945年(昭和20) 1月21日:(“遺骨は帰らぬだろうから墓地についての問題はほんとに後まわしでよいです。”)
             1月28日:(“四羽のヒヨコはとても大きくなりましたよ。”、“畑をあらして困りますよ。”次女・たか子宛)
             2月 3日:留守宅への最後の手紙(東京への空襲、特に焼夷弾に注意を促す内容)
             2月11日:手紙を運んだ航空便停止。
             2月19日:米軍硫黄島に上陸開始
             2月21日:千葉県香取基地から第二御楯特攻隊が来援し、21機が体当たり敢行。
             2月23日:摺鉢山陥落
             3月 5日:大本営宛戦訓電報「・・・・到底想像も及ばざる戦闘の生地獄的なるを以って、・・・」
             3月 7日:最後の戦訓電報「・・・陸海軍の縄張的主義を一掃し両者を一元的ならしむるを根本問題とす」
             3月10日:東京大空襲約10万人死亡。B-29はグアム、テニアン、サイパンから出撃。
             3月16日:大本営に宛てて決別電報を打つ。辞世の句三首のうちの一首が下記。大本営によって改変。
                    “国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき”→散るぞ口惜し
                    ニミッツ大将が硫黄島作戦の終結宣言。
             3月26日:栗林中将戦死約20000名戦死

1949年(昭和24) 1月 6日:硫黄島最後の日本兵2名が投降。

 年表を見ると分かるように栗林中将が、硫黄島に着任したのは、サイパン、テニアン、グアム島が玉砕する約2ヶ月前であり、死ねと命じられたようなものであった。当然、部下の兵士達も同じ運命なのであるが、指揮官としての栗林中将はより安全な小笠原諸島の父島から指揮することも可能であった。本文を抜粋すると『栗林の着任まで、小笠原地区集団長として硫黄島を含む小笠原諸島方面の防備を任されていたのは、大須賀應少将である。彼は父島から指揮をとっており、当然、栗林も父島に赴任するものと思っていた。』とあり、栗林は、そういう卑怯な人間ではなく、部下と共に生死を共にする覚悟の出来た人間であり、また、現場第一主義の合理的な人間でもあった。

 私は、これまで随筆を書くとき、怒りに任せてほとんど一気に書いてきたが、今回はそれが出来そうにない。本文中で印象的な部分を抜粋しながら私の意見を書いていく。この本には私が世間に伝えたいものがある。本文からの抜粋は、『  』内に記す。太字は私による。

第1章 出征
51頁
『栗林を硫黄島の総指揮官に指名したのは、当時首相を務めていた東条英機である。その際、彼は栗林に「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったいう。アッツ島は、栗林が硫黄島へ行く前年の1943(昭和18)年5月、米軍の上陸を阻止しようとして死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の小島である。
 大本営は硫黄島を死守せよと命じたが、太平洋の孤島を守りに赴くということは、もはや勝って敵を撃退することを意味しなかった。日本にはもうその力がなかったのである。ミッドウェー海戦での敗退以来、日本の敗色は日に日に濃くなり、戦力の差は開く一方であった。問題は、島をいつまで持ちこたえられるか。その一点だった。』

 東条英機は栗林に2万の兵隊と一緒に死んで来いと命じた。では、その命令を出した東条英機とはどういう人間であったのか
 ちょうど盆前に国立公文書館で敗戦前の1945年8月10日から14日に掛けての東条英機のメモが見つかったとの報道があった。
 東条はそのメモの中で、広島と長崎の原爆投下について「新爆弾に脅え」と国民を罵り、「国政指導者及び国民の無気魄」と現実に目を瞑り精神論を唱え、さらに「(日本は)相当の実力を保持」と戦争継続を訴えた。典型的な大本営と同一の現実を直視できない精神論のみの人間であったことが分かる。別の見方をすると敗戦を受け入れることは、東条が戦勝国の裁判に掛けられることを意味するので、東条は自分ひとりの命を守るために一億日本国民の命全てを捨てさせようとしていたのではないか。 その証拠に「敵の法廷に立つ如きことは、日本人として採らざる」と言いながら自殺未遂で敵の法廷に立っている。部下には死を命じ、国民には総玉砕を期待しながら、いざ自分の番が回って来ると見苦しい振る舞いの東条。こんな卑怯な人間に日本人は操られていたのである。

 話は飛ぶが、アメリカが勝ったのは、国力もあるが、精神論ではなく、現実を直視する目を持っていたからである。大本営も東条も精神論だけで現実を直視していない。原爆を落とされて「新爆弾に脅え」と恫喝されたんでは溜まったものではない。こんな人間によって日本国民310万人(軍人230万人、民間人80万人)が殺された310万人程度の犠牲ではまだ少ないから日本国民が一人残らず死ぬまで戦争を継続しろと東条は言っているのである。

 東条英機は戦陣訓の中で「恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈愈奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」と言った。恥を知らず、生きて虜囚の辱めを受けたのは誰か。

 東条英機のことを調べると本当に出鱈目な人間であったことが分かる。特に東条対する敵対者や個人的に嫌いな人間を選択的に死地に赴かせるような事に到っては何をか言わんや、である。栗林中将は、アメリカとカナダに計5年間赴任しており、陸軍の中では珍しいアメリカ通で、開戦にも反対していた。このような栗林を快く思わない東条が、栗林中将を硫黄島に送り込んだのではないかと思う。 

 自殺未遂後、回復後の健康診断を受ける東条英機の写真があるが、恥さらし以外の何ものでもない。極東国際軍事裁判で日本の事情を主張したとして評価する人間もいるが、極東国際軍事裁判自体が法の基本原則を無視した戦勝国による敗戦国への仕返し裁判なのであるから、それに出廷することは、戦勝国の仕返し裁判を認めることになり筋が通らない。終戦直後の世論は、東条英機に対して批判が凄かったようであるが、敗戦後直ちに日本人の手で太平洋戦争の総括をしなかったことが、現在の一部政治家らによる事実歪曲発言や靖国参拝に繋がっているのである。

 私の父は、戦地での話を良くしていたが、“靖国神社”と“英霊”と言う言葉は聞いたことが無い。“英霊”なんて戦地を経験していない戦争を美化しようとする人間が使う言葉ではないのか。“靖国神社”なんて、再び日本を戦争に巻き込もうとする戦争推進派が宣伝しているだけであろう。死んだ人は、各人の家で供養すればよい。ただ、それだけである。よく「国のために命を捧げた」と言うが、それは違う。正確には「無駄な戦争のために命を捧げさせられた」のである。誰によってか?それを明確にせずに“英霊”などと言う言葉を使うべきではない。太平洋戦争によって死なされた人間に失礼であろう。


第2章 二二キロ米平の荒野
【58頁】
『しかし、東条英機が「難攻不落」と豪語したサイパンを米軍上陸開始からたった10日間で見限ったように、この後、硫黄島に関しても大本営の方針は二転三転する。そして最終的には、米軍の上陸直前になって「敵手に委ねるもやむなし」として切り捨てることになるのである。』

 日本軍、大本営の失敗についての本はたくさん売られている。あほらしくて読む気にもならない。そもそも責任の無い組織がまともな結果を出せる訳が無い。責任とは何か。軍隊で言えば、部下の人命尊重であろう。戦争自体が要するに殺し合いなのであるから自軍の被害を必要最小限にして、敵軍の被害を最大にする。これしかない。ところが日本軍には、自軍の人命を大切にする思想が全くない。ゼロ戦が良い例である。ゼロ戦は優秀な飛行機だったなどと馬鹿なことを言う人間がいるが、操縦士を守る防弾装備は無く、機体も脆弱で急降下して逃げることも出来ない。これ程、操縦士を馬鹿にした戦闘機は存在しない。軍人の命は使い捨てだったのである。だから、いい加減な作戦で方針も二転三転する。そのたびに我が日本軍は数万人ずつ殺されていく。アメリカ軍に殺されるのではない。大本営や東条英機に殺されたのである。無責任の組織であるから、どんな馬鹿な作戦を立てて失敗しても反省も無く、同じ失敗を何度も繰り返す。旧日本軍とは、最低の無責任組織であったことは、絶対に間違いない。

 その体質をそのまま受け継いでいるのが、自衛隊である自衛隊員の年間自殺者は毎年100人弱存在する陰湿ないじめや隠蔽体質。私の父が体験した暴力陸軍とどこが違うのか。力の暴力はさすがに犯罪になるので、自衛隊では精神的圧力か?何も変わっていないのである。しかし、まあ、良く考えたら良い。自衛隊とか、何んとか言っても、要するにどうやったら人を最も合理的に殺せるかを仕事にしているのだから。本当に軍隊を持ちたいのなら徴兵制を敷いて、小中学校から敵と言う名の人間を殺すことの大切さを教育すべきである。憲法9条改憲派の人間は、それだけの覚悟は出来ているのか?


70頁】
『栗林は潔癖な人だった。硫黄島には慰安所が設けられなかったが、これは栗林が難色を示したためだという説がある。
島民の内地送還は7月3日から始まり、14日までに完了した。16歳から40歳までの扶養者のいない男子が陸軍の軍属として徴用され、また島にあった気象観測所の所員が海軍勤務となったが、そのほかの住民は全員島を離れた。』

71頁】
『当時すでに戦争は軍も民もない総力戦の様相を呈し、国民はひとしく“軍国の民”として戦争完遂のためにすべてを捧げることが求められていた。しかし、栗林の中には、普通の人々が普通の生活を送れるようにするために自分たちは存在するのだという強い思いがあった。』

72頁】
『このころ栗林はどんな思いで戦いに臨もうとしていたのだろうか。栗林が着任した頃、しばらく起居をともにしたという武蔵野菊蔵工兵隊長の証言を『闘魂・硫黄島』から引いてみよう。
 公務以外のときは同僚と同じように語ったり笑ったり、実に平和な学者肌の将軍であった。あるとき「ぼくは米国に五年ほどいたが平和産業が発達していて、戦争ともなれば一本の電報で数時間を要せず軍需産業に切り換えられる仕組みになっているのだ。こんな大切なことを日本の戦争計画者たちは一つも頭においていない僕がいくらいっても一向お分かりにならない。この戦争はどんな欲目で見ても勝目は絶対にない。しかし、われわれは力のあるかぎり戦わなくてはならない。血の一滴まで戦わなくてはならない」といわれた。』

 栗林中将は、まず民間人を内地に避難させた。そして、軍人の使命をよく理解していた。民間人を道連れにした沖縄とは大きな大違いである。そして、米国生活からこの戦争に勝ち目がないことを理解し、戦争計画者にいくらこの事を言っても理解しない悔しさがあったであろう。東条らの罪は非常に大きいと思う。


第三章
作戦
76頁】
『 硫黄島玉砕から7年後の1952(昭和27)年。高野建設の硫黄島作業所に勤務していた安藤富治は、島内の洞窟の奥深くで、散乱した遺骨や遺品の陰に一冊の軍隊手帳を見つけた。
 ぼろぼろになったページの最後に、それは書きつけてあった。

一 我等は全力を振って守り抜かん。
二 我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
三 我等は挺身敵中に斬込み敵を鏖(みなごろし)せん。
四 我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆さん。
五 我等は敵十人を斃さざれば死すとも死せず。
六 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。

 烈々たる言葉が並ぶこの六項目は、栗林が作成し全軍に配布した「敢闘の誓」である。戦いにのぞむ心得を述べた、いわばスローガンといえる。』

 この「敢闘の誓」の意味は何か?
 従来の日本軍の戦い方を完全に否定しているのである。硫黄島では最初から日本軍が助かる道は無かった。玉砕、要するに全滅することが義務付けられていた。誰によってか!卑怯者の東条によってである。
 従来の日本軍の玉砕の仕方は、兵隊が全員一斉に無意味な万歳突撃をして全滅し、司令官は自決すると言うのが定法であった。ところが栗林中将は、合理主義者であるから、そのような無意味な死に方は認めないのである。硫黄島は火山島で暑い地下壕にもぐった日本軍は、水の欠乏と食料難で生きていくだけでもぎりぎりの状態であったが、兵隊の自決を認めなかったのである。敵を如何に一人でも多く殺すか。そのことに栗林は全精力を注いだのである。

 では、合理主義者の栗林中将が、なぜそれ程、敵を殺すことにこだわったのか?なぜ潔く万歳突撃しなかったのか。

 それは自分達が1日でも長く硫黄島を死守することが、米軍による本土空襲を阻止することに繋がると考えたからである。また、ゲリラ戦でネチネチと米軍を悩ますことで米軍に厭戦気分を生じさせることも考えていたのかもしれない。

 栗林はゲリラ戦をするために後方陣地を主にした地下壕を完成させたかった。しかし、馬鹿な大本営は、その栗林の作戦まで邪魔するのである。
 こう考えると無能者が組織のTOPに存在するということは、罪であり、ある意味犯罪であることが分かる。だから戦争指導者たちは、日本人自身の手で罰せられなければならなかったのである。日本国民310万人(日本国民とされた人間を含む)をゴミ屑のように死なせた責任を問わずに何が英霊だ。

96〜97頁】
『 しかし栗林のこの構想は、海軍側から激しい抵抗を受ける
みすみす上陸を許し、大事な飛行場を敵の手に渡すなど、もってのほかである。」
上陸してくる敵は水際で撃滅するのが、島嶼作戦の常識である」
というのがその意見であった。
 八月中旬、大本営陸海軍部作戦部長の眞田、中澤両少将とともに硫黄島を訪れた第三航空艦隊参謀・浦部聖中佐は、「硫黄島の陸上航空基地は不沈空母として絶対に確保しなければならない。そのためには、敵が水際に達する前に撃滅すべきである。」と強く主張した。そして、千鳥飛行場の両側の水際に強固なトーチカ(コンクリート製の小型防御陣地)を何重にも作るよう進言した。
 硫黄島ではこのときすでに、栗林の方針にもとづいて後方陣地の構築が進められていた。しかし浦部参謀は、兵器資材はすべて海軍で提供するので、陸軍の兵力を提供するようにと迫った。
これは中央の意向である」とする海軍側の主張は強硬だったが、栗林は主たる陣地を水際ではなく後方に作るという方針を変えることはなかった。不沈空母として確保すると言っても、硫黄島の航空機の実働機数は、8月10日の段階で、零式戦闘機11機、艦上攻撃機2機、夜間戦闘機2機しかなかったのである。

 ここを見ただけでも大本営が現実を無視した空論ばかり言っている事が分かる。戦闘機もないのに「敵が水際に達する前に撃滅すべき」と言うが、ではどうしろと言うのか。小学生でも浦部が非合理的な発言をしていることは理解できるであろう要するに大本営とか、参謀とか言っても小学生以下の頭なのである。こんな糞みたいな人間達によって日本国民310万人の命が犠牲にされたのである。何度も言うが、英霊達は日本のために命を捧げたのではない小学生並みの思考能力も無い東条を始めとする戦争指導者によって命を奪われたのである。


第五章
家族
134〜135頁
『 開戦以来初めての、陸海軍共同による作戦計画である「帝国陸海軍作戦計画大綱」が立案されたのは、1945(昭和20)年1月20日だった。この時点ではまだ、硫黄島は「本土防衛の前線として確保すべき要域」ということになっていた。
 それが、この大綱を受けて2月6日に策定された「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定研究(案)」では一転、「結局は敵手に委ねるもやむなし」となる。ここにおいて硫黄島は、戦う前に放棄されることが決定したのである。
 その理由を、大本営は「日本本土の航空基地から遠いため航空戦力の発揮が困難である」「米軍の日本本土侵攻基地としての価値は少ない」ためであるとした。それならば、何のために二万もの兵を送り込んだのかあまりにも一貫性を欠く、行き当たりばったりの作戦方針といえる。』

 著者が言うように大本営は一貫性の無い、行き当たりばったりの作戦しか立てる能力が無かったのである。二万人の命なんて無能力大本営から見たらゴミのようなものであったのである。要するに戦争指導者たちは軍事能力も無ければ、国民の命をゴミのごとくにしか感じられない感性の持ち主達だったのである。

140頁
栗林が家族に送った手紙の内容を紹介する。
『「私も米国のためにこんなところで一生涯の幕を閉ずるのは残念ですが」(昭和19年9月12日付)、「このような大戦争も起こらず普通だったら今頃は、お前達ももちろん私もずいぶん幸福に愉快に暮しておれたろうに、」(同年11月26日付)など、他の人には明かさなかったであろう正直な思いを綴っている。残された手紙を読んでいると、夫婦の会話が聞こえてくるかのようである。』

143〜144頁
『 空襲は相変わらず毎日あります。このごろでは夜間一機か二機、昼間二十機内外の空襲が欠かさずあります。その度ごとにこちらの飛行場や陣地がいためつけられるので、あちらこちら見渡す限り草木がなくなり、土地がすっかり掘りくりかえされて惨憺たる光景を呈するに至りました。内地の人には想像もできない有様です。(中略)
 これがもし東京などだったらどんな光景(もちろん凄惨な焼野原で死骸もゴロゴロしている)だろうなどと想像し、何としても東京だけは爆撃させたくないものだと思う次第です。(昭和19年9月11日付 妻・義井あて)

 この戦争で、軍人でしかも最前線に出ている私が死ぬのは仕様がないとしても、お前達内地の婦女子まで生命の危険を感じなければならないのは何としても我慢の出来ない話だから、是非万難を排して田舎に退避し生命だけは全うしてくれ。(昭和19年12月8日付 妻・義井あて)』


それでは敵米軍は、栗林中将のことをどう思っていたのであろうか
第六章
米軍上陸
149〜150頁
 硫黄島上陸作戦の指揮官である米海兵隊のホーランド・M・スミス中将は、栗林のことを次のように記している。
『 太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。島嶼の指導者の中には単に名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もあった。栗林の性格は彼が残した地下防備に深く記録されていた。(「米国海兵隊と太平洋進撃戦」より)』

151〜152頁
『 今日は12月8日で、予期はしていたが朝8時半頃から昼の1時頃まで13回にわたり大型機の空襲あり。その後、引続き艦砲射撃を約1時間半受け、ただ今(午後3時)防空壕から出て来たばかりである。
 近辺へもだいぶ爆弾が落ちたが幸いに何もなかった。全体の死傷もごく僅少であった。(昭和19年12月8日付 妻・義井あて)

 この日だけで、硫黄島に飛来した戦闘機と爆撃機はのべ192機、投下された爆弾は800トンに達した。また、重巡洋艦3隻、駆逐艦6隻から6800発におよぶ艦砲射撃を受けている。日本軍は地上では10機の飛行機を失ったが、地下陣地に損害はなく、死傷者も少なかった。
 それまで間歇的に行われてきた砲爆撃は、この日から上陸まで1日も休まず、実に74日間連続で行われた。スミス中将ら米軍の指揮官を驚かせたのは、この間、陣地が着々と増え、堅固になっていったことである。
 ・・・・・・・・・・・。
 米海兵隊公刊戦史『硫黄島』によれば、74日間に投下された爆弾は計6800トン。12月から1月にかけて5回にわたって行われた艦砲射撃の砲弾数は、16インチ砲203発、8インチ砲6472発、5インチ砲15251発におよぶ。米軍にしてみれば、島そのものが消えてなくなってもおかしくないほどの砲爆撃だった。しかし、偵察機が撮影した航空写真によれば、爆撃を開始した時点で450だった主要陣地が、上陸直前には750に増えていたのである。』

 正に栗林中将の地下壕作戦が、敵の艦砲射撃に対して有効であったことを示している。これを大本営の言いなりになって水際にトーチカごときを築いていたら米軍の艦砲射撃の良い標的になっていただろう。

 では、栗林中将は、なぜこれ程、従来の日本軍にない作戦を立案することが出来たのか。
169頁
『 これに対し、普通の中学校では英語が必修で、そのため中学校から陸軍士官学校に進んだ者は英語圏である米英に留学することが多かった。しかし中学出身者はあくまで傍流とみなされたため、英米をよく知る軍人が重要なポストにつくことは少なかったのである。
 栗林は幼年学校出身ではなく、地元長野の中学校から陸軍士官学校に進んでいる。栗林が騎兵第一旅団長として中国の包頭にいたときの部下の一人は、「栗林閣下が広い視野の持ち主だったのは、幼年学校出身でなかったことが大きいと思う」と私に語った。』

 旧日本軍が能力ではなく、出身学校で出世が決まる現在の公務員的硬直組織になっていたことが分かる。どんなに馬鹿なことをしても責任を取らなかったところなど、現在の公務員と全く同一体質であることに驚く。


第九章
戦闘
 米軍上陸後の実際の戦闘の状況と大本営の馬鹿さ加減については、本文の抜粋のみで充分であろう。
240〜245頁
『 「この地獄の世界」―そう思っていたのは、兵士たちだけではない。3月5日、膽部隊参謀長名で打電された大本営あての戦訓電報の末尾に、以下のような文章がある。

 敵の制空権は絶対かつ徹底的にして1日延1600機に達せしことあり。未明より薄暮まで実に一瞬の隙なく2,30ないし100余の戦闘機在空し、執拗なる機銃掃射か爆撃を加え、わが昼間戦闘行動を封殺するのみならず敵はその掩護下に不死身に近き戦車を骨幹とし、配備の手薄なる点に傍若無人に浸透し来り。
 我をして殆ど対策なからしめ、かくして我が火砲、重火器ことごとく破壊せられ、小銃および手榴弾を以て絶対有利なる物量を相手に逐次困難なる戦闘を交えざるを得ざる状況となれり。
 以上これまでの戦訓等にては到底想像も及ばざる戦闘の生地獄的なるを以て、泣き言と思わるるも顧みず敢えて報告す。

 戦訓電報の中で、戦闘の状況を「生地獄」と表現するのは異例のことである。しかしこのとき硫黄島で息をしている者の中で、自分の今いる場所が地獄だと思わない者はなかった。傍線をほどこした最後の一文からは、生き残った全将兵の叫びが聞こえてくるようだ。
 発信者は参謀長になっているが、硫黄島からの電報はすべて総指揮官である栗林が決裁していた。この過激ともいえる電文は栗林の意志でもある。自分たちが見捨てた島を、二万将兵の死をもって守り抜けと命じる大本営に、栗林は島の実情の一端を知らせようとしたのだった。
 文句も泣き言も言わず、すべてを飲み込んで黙ったまま散っていくのが当時の軍人の美学であっただろう。しかし栗林はそんなものに殉じる気はなかった。
 栗林は、移り変わる戦闘の状況を戦訓電報で克明に報告している。硫黄島の後、米軍は台湾や沖縄に上陸してくると予想されていた。その際の防備に少しでも役立つようにと、正確な数字の把握、敵の戦術・戦法の観察と分析につとめたのである。
 当時の栗林の報告を、戦後に発表された米軍の資料と照らし合わせると、彼が正確に米軍の損害状況を把握していたことがわかる。たとえば3月2日現在の米軍の損害を、栗林は死傷者約12000、戦車約200、航空機約60と推定しているが、これは実際の数字よりも1割程度多いだけである。
 太平洋戦争全体を通して、日本軍の指揮官は、戦況を自分に都合の良いように解釈しがちだった。それに対し、栗林はひたすら冷静に事実を見据えていたといえる。 その栗林が最後の戦訓電報を発したのは、3月7日のことである。硫黄島から発信された中で最も長いこの電報は、ふたつの点で異色だった。
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 批判の要点はいくつかあるが、まず一つ目は、後退配備での出血持久という方針に徹底せず、水際作戦にも未練を残したことに対してである。
 1944(昭和19)年8月の段階で、大本営は後退配備に方針転換した。しかし、それは、後方の主陣地に100パーセント力を注げというのではなく、水際陣地も構築せよというものだった。特に海軍側が、水際陣地を作ることに頑強にこだわった。
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 このことを栗林は、「敵の絶対制海、制空権下に於ける上陸阻止は不可能なるを以て敵の上陸には深く介意せず専ら地上の防禦に重きを置き配備するを要す」「主陣地の拠点的施設は尚徹底的ならしむるを要す。其の然るを得ざりしは前項水際陣地に多大の資力、兵力、日子を徒費したるが為なり」とし、どっちつかずの方針のために肝心の主陣地が不徹底なものになったのは大きな反省点だとしている。
 批判の二つ目は、日本軍にはもう飛行機などないにもかかわらず、米軍の上陸直前まで、飛行場の拡張工事を行わせたことに対するものである。戦訓電報にはこうある。
「・・・・・・殊に使用飛行機も無きに拘らず敵の上陸企図濃厚となりし時期に至り中央海軍側の指令により第一、第二飛行場拡張のため、兵力を此の作業に吸引せられしのみならず陣地を益々弱化せしめたるは遺憾の極みなり
 硫黄島はもともと“洋上の不沈空母”として構想されており、当初は確かに飛行場の整備拡張が第一だった。しかし米軍の上陸がほぼ確実となり、島を少しでも長く死守することが最大の課題となってもなおその方針を変えず、拡張工事に人員を割いていたのは不合理としかいいようがない。しかも使える飛行機はゼロに近かった。苦労して拡張した飛行場は結局、米軍による日本本土空襲に使用されることになるのである。
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 硫黄島における陸海軍間の齟齬は、陣地構築のときからすでに顕在化し、米軍上陸後の戦闘に至るまで尾を引いた。その原因は、中央の陸軍と海軍が対立しており、そのため硫黄島の防備方針が一本化されなかったことであるとして、栗林は戦訓電報の中で「・・・・・・陸海軍の縄張的主義を一掃し両者を一元的ならしむるを根本問題とす」と指摘している。
 この戦訓電報は公刊戦史に収録されているが、陸海軍の縄張り主義を批判し、一元化を進言した部分だけが省略されている。公刊戦史を編纂したのは、防衛庁防衛研究所である。陸海軍の対立は、戦後、自衛隊の時代となっても、できれば触れたくないタブーだったということなのだろうか。』

 以上を読めば、私が大本営を小学生以下の馬鹿だと罵る理由が分かるであろう。
 日本の飛行機が無いのに上陸する米軍のために上陸直前まで飛行場を拡張する利敵行為。

 一事が万事この調子である。


硫黄島が米軍の手に落ちてどうなったか。
第十章
最期
252〜253頁
『 米海軍の従軍記者だったリチャード・ニューカムは、著書『硫黄島』で、3月10日の東京大空襲を「戦争中最大の破壊攻撃」であるとして、「この攻撃は紀元64年にネロがローマに火をつけたよりも、1664年のロンドンの大火、1812年のモスクワの火災、1871年のシカゴの大火事、1906年のサンフランシスコの地震などのいずれより残忍であった」と書いている。
 消失面積は江東区・墨田区・台東区にまたがる約40キロ平米。まず先発部隊が目標区域の輪郭に沿って焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民が逃げられないようにした上で、内側をくまなく爆撃した。いわゆる絨毯爆撃である。』

 米軍によるこのような民間人に対する無差別攻撃がなぜ罰せられないのか。
 日本軍も外地で出鱈目なことをやったかもしれないが、米軍の行為も同様であろう。東京民間人大虐殺である。


272〜273頁
『 防衛庁防衛研究所戦史室による公刊戦史(戦史叢書)『大本営陸軍部10 昭和20年8月まで』は、硫黄島の陥落を大本営がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。

 軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期していたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。

「喪失についてはある程度予期した」から「格別の反応を示」さなかったという。二万の命を、戦争指導者たちは何と簡単に見限っていたことか。
 実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰ってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。
 合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに“甲斐ある死”を与えたかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。』

エピローグ
282頁
『 硫黄島に渡ってからの栗林の軌跡を辿っていくと、軍の中枢にいて戦争指導を行った者たちと、第一線で生死を賭して戦った将兵たちとでは、「軍人」という言葉でひとくくりにするのがためらわれるほどの違いがあることが改めて見えてくる。安全な場所で、戦地の実情を知ろうともせぬまま地図上に線を引き、「ここを死守せよ」と言い放った大本営の参謀たち。その命を受け、栗林は孤立無援の戦場に赴いたのである。』

最後に言う。230万英霊は国に命を捧げたのではない。
東条をはじめとする無能で無責任な戦争指導者たちによって殺されたのである。
 

(2008年9月7日 記)

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